『私の男』 桜庭一樹 (文藝春秋)

 雨のような、湿った男の体臭は嫌だと思う。他人の粘つく唾液は汚いと思う。ましてや父と娘が交わることなど、嫌悪感を覚えずにはいられない。
第138回直木賞を受賞した『私の男』は異様な親子の物語である。
九歳の時、津波によって目前で家族を飲み込まれ、孤児になった<花>。男手一つで花を引き取った、たったひとりの血縁<淳悟>。養父の淳悟は、無職で罪人で、花の結婚式にも安物のスーツを着て、堂々と遅刻をするだらしのない男であった。なのに花は、男のどこか優雅でうつくしい様子を、愛おしく眺めている。

<私の男は、ぬすんだ傘をゆっくりと広げながら、こちらに歩いてきた。(略)その流れるような動きは、傘盗人なのに、落ちぶれ貴族のようにどこか優雅だった>

花の結婚式に、淳悟は花婿の美朗から、家に伝わる古いものを用意するよう頼まれる。<サムシングオールド>という、結婚式の風習である。淳悟は一台のふるいカメラを用意した。それは花と淳悟にとって、封印された過去を暴く忌まわしいものだった。
物語は一章ごとに、二人が出会った過去へと遡り、葬られた秘密が明かされる。
真っ黒な北の海に、何を見たのか。二人がなぜ、こんなふうにつながっていったのか―。
絡み合う木のように、ひとときも離れたがらず、一粒の飴を互いの舌で交換しながら味わう花と淳悟。二人を引き離そうとする者には、何のためらいもなく狂犬のように牙をむく。

<開いた唇から、桃色に輝く舌が飛びだす。子供の舌って、あんなにぬめぬめとして、湿っているのだろうか……淳悟の浅黒い横顔が、笑みを浮かべたせいですこし、ひきつる。(略)娘をもっと欲しがるように、舌がまたぬるぬると絡まったかと思うと、白い飴が娘の口の中に移動した>

親子とか、常識とか、二人は何ものにもとらわれない。淳悟の湿った体臭がただ愛おしい。唾液でべたべたになりながら、欲求にまかせて動物のように貪りあうだけである。花にとって淳悟とは、血のつながりをこえた所有物なのである。淳悟もまた、花を「俺のもんだ」と所有し、おいしいものを味わうように、いつも長い舌で舐めまわす。
だから、そんな相手を思う瞬間は、たとえようもなく幸福である。

<おとうさんの帰りが、いつなのかわからないけれど。待っていたいので、待っていた。
坂道をときおり人があがってくるけれど、おとうさんじゃない>
<淳悟も、もうすぐかもしれないと思ったら胸が熱くなって、うれしすぎてかえって悲しいような気分になった(略)お父さんの帰りを、待っている>

流氷の浮かぶ海のそばで、凍えそうになりながら淳悟を待つ花。その姿は、恋しい人を思う浮き立つような喜びに溢れている。
<私の男。私の男>と、淳悟を思いながら歌うように花はつぶやく。
私の男――なんと嬉しくなる響きだろう。隠微で、男をまるごと独占してしまった女だけが口にできる自信と満足感に満ちている。
眉をひそめながらページをすすめていたはずだった。なのに、こんな寒い夜には、「血」より濃く相手を求めてやまないつながりが、羨ましくてしかたがなくなる。
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by novitama | 2008-02-29 00:40 |